2018年04月09日

ディベートバトルゲーム案

【必要人数】

・プレイヤー(2名)

・ジャッジ(1〜数名、ただし奇数が望ましい)


【使用するもの】

・キャラクターカード(全30種)

それぞれ異なる有名キャラクター(実在・架空問わず)の名前が書かれたカード。

・フィールドカード(全10種)

それぞれ異なる競技・勝負内容が書かれたカード。


【プレイの流れ】

@キャラクターカード・フィールドカードをそれぞれよくシャッフルし、裏向きのままそれぞれ山札にする。

Aジャッジ(複数の場合は代表者)がキャラクターカードの山から上から10枚を取り、表側にして両プレイヤーに見えるように並べる。(キャラクター・オープン)

Bフィールドカードの上から3枚を同様に公開する。(フィールド・オープン)

Cコイントスもしくはジャンケンでプレイヤーのピック順を決定する。

D先にピックするプレイヤーは、オープンされた10枚のキャラクターカードから1枚を選択する。(ファーストピック)

E後にピックするプレイヤーは、残りの9枚から同様に選択する。(セカンドピック)

Fファーストピックしたプレイヤーが、オープンされた3枚のフィールドカードから1枚を選択する。(フィールドピック)

Gセカンドピックプレイヤーは、ディベートの先攻・後攻を選択する。

H「ピックされたフィールドカードに書かれた競技・勝負内容について、自分のキャラクターが相手のキャラクターに勝利するだろう」という立場からディベートを行う。ディベートは以下の手順で行う。


1.先攻・後攻の順で、各プレイヤーがそれぞれ立論を行う(それぞれ1分)。

2.先攻・後攻の順で、各プレイヤーがそれぞれ反駁を行う(それぞれ30秒)。

3.ジャッジが「より説得力があったのはどちらか」という観点から判定を行う。複数の場合は多数決とする。


以上このディベートから判定までを第1ゲームとする。


I第1ゲームが終了したら、Dに戻り第2ゲームを行う。ただし、ピック順は第1ゲームと逆順で行う。また、第1ゲームでピックされたキャラクターカード・フィールドカードは以降ピックできない。

1・第2ゲーム終了時に両プレイヤーが1ゲームずつ勝利していた場合、第3ゲームを行う。ここでも、先のゲームでピックしていたキャラクター・フィールドは使用できない。


【勝敗】

2ゲーム先取したプレイヤーがそのマッチの勝利者となる。

posted by 淺越岳人 at 22:49| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月17日

某月某日

ボックス席はなんとも"旅"って感じで、いい。たとえ普通列車でも"普通"じゃなくなる。
窓から眺める景色はちょうど良いテンポで後ろに飛んで行く。道路を走るトラックは抜き去るが、その向こうの新幹線には敵わない。
「ディスイズちょうどいい」というフレーズが浮かぶ。これなんだっけ。思い出せても思い出せなくてもいい。
2人がけのボックス席通路側にはおれの荷物。少しだけ申し訳ないと思いつつ、車内は今のところ空いているから。まあそりゃ隣にだれも乗ってこない方が楽だけど、別にだれかがいてもいなくてもいい。
カバンの中には旅装一式と、何冊かの文庫本。そのうち一冊は膝の上。少し読んでは窓の外、景色と頁をいったりきたり。集中力はないけど、おれはこれを読んでも読まなくてもいい。
眠くなったら寝ればいい。降りたくなったら降りればいい。なんでもいい時間。なんともいい時間。
耳慣れない地名の駅が続き、隣に座ったのはデカいデイパックを背負ったニキビの青年。旅慣れた感じで荷物を網棚にあげる。手には文庫本。チラッと表紙を見る。椎名誠。わかるぜ青年。そんなの読んだら旅に出るしかないよな。胸の奥を刺激されるが、泣いても泣かなくても、いや泣くのはダメださすがに。
窓の外はいつの間にかオレンジ、明日は晴れそうだ。晴れても晴れなくても、でなく晴れろ。友のハレの日だ。
そうだ、HONDAだ。たしかショーン・レノンだ。
posted by 淺越岳人 at 21:04| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月27日

評:牡丹茶房『Maria』

総武線の長さに倦んだので書き始め、「もったいない」から公開する即出し記事なので、乱筆と論旨の穴はご容赦を。


「もったいない」という印象がとても強かった。


冒頭で主人公が起こした、「殺人」というフィクション値の高い要素によって全体のレベルが「虚構」に寄ってしまった。主人公はおそらくかなり作演出の人物像を重ね合わせた存在なのだろうが(事前のインタビューでも『身を削って』と表現していた)、それによってせっかくの私小説性を失ってしまっている。私小説の強みである「そこまで曝け出すか!?」というスキャンダル性が薄れ、言うならば安心して見られてしまうのだ。もっと私小説的レベルの虚構性、ドキュメント性が高い物語だったならパワーを持ったはずのエピソードもあったのに(それがどこまで事実かはわからないが)、それにフィクションという皮膜が噛まされてしまっていたことが、残念だった。

これは一種ワイドショー的な、下世話な感覚なのもしれないが、私小説・自伝においてその部分と作品の面白さはどうしたって不可分だし、だったら「身を削った」のにその効果が薄まるのは単純にもったいない。そう感じてしまうのだ。


しかし「殺人」という要素がその「もったいなさ」以上の効果を上げていたか、というとそこには疑問符が付く。


もう一つの、しかも主人公にとってもっと大きな「死」によって冒頭の死が塗り替えられてしまってはいないだろうか。

主人公がラストシーンに語りかける相手は、懺悔し懇願する対象は、老死した猫であり、犠牲者ではない。そのことに対する倫理的な部分は抜きにしても、少し違和感がある。

物語をスタートさせた「死=動機」とゴールである「死=結果」が微妙に重なっており、微妙にズレているのだ。もちろん主人公にとってアイドルと猫が等価でないのもキャラクターとしての立ち位置が異なるのも理解しているが、プロットレベルで最大の要素がブレてしまうのも、やはりもったいないと思うのだ。

これは多分におれがペットの命と人間の命を等価とは考えられないのもあるのだろうけど。


また、冒頭に殺されるアイドルは、あくまで自分の理想に拘泥する主人公に対しての、「美学を捨て現状と折り合いをつけ生きていく」というオルターエゴ(もう一人の自分)またはダークサイド(自分の暗黒面)とも考えられる。実際に、主人公の想念を死者との対話として表現しているので、そう考えるのも不自然ではないだろう。だとすれば、その殺害はつまり自らの弱い部分・煮え切らない部分を棄てることであり、その時点で何がしかの主人公の「成長・変化」が描かれていなければならないだろう。

しかし、主人公が自作のドラマ化には拘ったり、それまでの生活を維持しようとしたり(それに関しては『美の完遂』が動機、という見方もできなくはないが)、殺した瞬間には大きな変化を遂げているわけではないので、「半身」としてあのキャラクターを考えるのが難しくなってしまう。第一、そのように見せたいのならもう少し主人公との対比がしっかりしていなければならない。


「半身」でなく主人公と猫とアイドルを「三位一体」として捉える、ということもできるかもしれないが、だとしたら余計にラストシーンは「三位」でなくてはならないだろう。そこにあのアイドルは介在しているべきである。


最後に、どうしても気になったことが一つ。中盤過ぎたくらいに、主人公が「作品を見ろ!」と怒りを露わにする。自分の状況や人間性は放っといてくれ、と(さすがに正確に引用できなくて申し訳ない)。

ここに関しては、明確に矛盾があると感じた。


主人公は執筆中の自作について、自分が殺人者であることが世間に明らかになることで完成する、と考えているのではなかったのか?

それは作品において、「自分」の存在が勘定に入っていないか?

それは彼女の言う「作品を見」ることなのか?

主人公の行動原理や感情がすべて筋が通っている必要はないだろう(そこについては作中で自省的・自嘲的に語らせている)。ただ、この作品での主人公の「作品論」「美学」に関してはそれは許されるのだろうか?そこは強固であり一貫していなければならないのではないだろうか?


ここが一番腑に落ちない部分であり、意見がある人がいたら是非聞きたいところである。

posted by 淺越岳人 at 22:58| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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